井田仁康先生インタビュー〈前編〉「地理は暗記科目」からの脱却。必修化までの長い道のり

2022年度から、全国の高校で「地理総合」が必修科目となりました。現在では当たり前になりつつあるこの制度ですが、実現までには長い年月がかかりました。日本の地理教育研究を牽引し、地理必修化に向けた活動や教科書づくりにも携わってきた本学科特任教授の井田仁康先生に、その舞台裏と、これからの地理教育について伺いました。
地理を学ばない高校生が増えていた
2022年度から高校の「地理総合」が必修になりました。先生はその実現に向けた活動に長く関わってこられましたが、そもそも必修化が必要とされた背景を教えてください。
1990年3月の学習指導要領改訂で高校の社会科が地理歴史科と公民科に分かれ、世界史と現代社会が必修になった一方で、地理は選択科目になりました。その結果、地理を履修する生徒が減少し、大学入試でも地理を選択する生徒が少なくなりました。そうなると高校でも地理の授業が減り、地理教員の採用にも影響してしまう。そうした悪循環が続いていたんです。
もう一つの問題は、地理が「暗記科目」だと思われていたことです。地名や特産物を覚えることが地理の勉強だという認識が強かった。しかし、実際の地理は、さまざまな資料から地域の特徴や社会の仕組みを読み解き、論理的に考える学問です。2008年や2013年に実施した地理教育に関する調査からも、基礎的な知識や理解の不足が見えてきました。暗記科目だと思われているのなら、まず、その基礎的な知識すら十分に身についていない現実を示そうと考えました。そこから地理教育の必要性を訴えていったわけです。
歴史学者や行政との連携が実現の鍵に
必修化に向けては、学会や行政への働きかけも行われたそうですね。研究者の立場から国の教育制度にも貢献するとき、どのようなことが重要だったのでしょうか。
地理教育の専門家として、日本学術会議や国際地理学連合(IGU)に関係する活動などに携わってきました。2010年には地理関係の24学会で要望書をまとめ、文部科学省側に提出しています。ただ、地理の関係者だけで主張していても、なかなか前には進みません。大きかったのは、歴史分野の研究者と協力できたことです。歴史を理解するにも地理の知識は必要ですし、地理を理解するにも歴史の知識が必要です。どちらか一方だけを必修にすればよいという話ではありません。2011年には日本学術会議でも、地理と歴史の双方を重視する方向で提言がまとめられました。
行政との関係も重要でした。政治の世界では政権交代もありましたが、特定の政党の問題にはせず、継続して必要性を伝えることができました。下手に政治的な争点にしてしまうと、賛成と反対の対立が生まれかねません。結果的には、地理必修化に対する大きな反対もなく、歴史の関係者とも行政とも協力できた。今振り返ると、偶然のタイミングも含め、いろいろな条件がうまく重なったのだと思います。
理想を現場で実現するために
制度を変えるためには、実際の高校で新しい地理教育が成立することも示す必要があったと思います。学校現場とは、どのように連携されたのでしょうか。
必修化を訴えるだけでなく、実際にどのような授業ができるのか、その根拠を示す必要がありました。そこで、当時定められていた「研究開発校」などで新しい教育課程を試み、その成果を検討する活動にも関わりました。例えば、神戸大学附属中等教育学校や日本橋女学館高等学校などでの取り組みです。
ただ、高校には大学受験という大きな問題があります。公立高校でも私立高校でも、大学受験に支障をきたすような教育課程は簡単には導入できません。その点、地理の分野は大学の研究者と高校の先生方とのつながりが比較的強い。学校現場の事情を踏まえながら協力し、実践と検証を重ねられたことも、必修化につながった要因の一つだと思います。
教科書にも新しい地理教育を
先生は小学校から高校まで、幅広く教科書づくりにも関わってこられました。高校の「地理総合」の教科書では、どのようなことを重視されたのでしょうか。
学習指導要領の改訂により教科書も新しく書き直されます。新しい教科書を採用する場合、改訂にそって大きく変わる教科書を採用するのか、学習指導要領にそってはいてもそれまでの内容構成できるだけ残した教科書を採用するのかなどを考慮して教科書が採択されます。一般には、従来の教え方に近いもののほうが学校で採用されやすいと考えられています。でも、せっかく新しい科目ができるのだから、学習指導要領の理念を正面から受け止めた教科書を作りたかったんです。
私が重視したのは、課題を見つけ、資料を読み、考えながら解決していくプロセスです。最初から正解を教えるのではなく、生徒自身が考えることを中心にしたい。出版社とはかなり議論しました。実際、文部科学省との意見の相違よりも、出版社との調整のほうが大変だったくらいです(笑)。それでも、最終的には作りたかった教科書を形にできました。検定意見も比較的少なく、採択率は高くはありませんが、多くの学校で採用していただけたのはうれしかったですね。
「地理は満点が取りにくい」は悪いことではない
必修化から数年が経ちました。かつての「地理は暗記科目」という認識は、変わってきたと感じますか。
高校生や高校の先生方の認識は、変わってきていると思います。大学入学共通テストでも、知識をそのまま答えるのではなく、資料を読み、知識を応用して考える問題が以前から出題されていました。これがより顕著になると同時に、より幅広く認識されるようになってきたようです。立正大学の入試でもそうした問題を出しています。「地理は満点が取りにくい」と言われることがありますが、それはある意味で正しい認識だと思います。覚えたことをそのまま答えればよい科目ではありませんから。
一方、社会一般には、まだ昔の暗記科目というイメージが残っています。地理総合が必修になったことは大きな前進ですが、すべての高校生が履修するようになっただけで終わりではありません。地理を学ぶことで、どのような力が身につくのか。それを授業の中で実現し、社会にも伝えていくことが、これからの課題だと思います。
後編予告|「地図より時刻表が好きだった」。地理学が育てる、考える力
子どものころ夢中になった鉄道の時刻表、自分で描いたダイヤグラム。そこには、見えない仕組みを想像する面白さがありました。後編では、デジタル時代の思考力、フィールドワークの価値、そして立正大学での地理教育について伺います。
聞き手:永井裕人(地理学科 准教授)
